北ドイツの農場での四つの時代の出来事を、美しい映像と音、最低限の台詞と説明で描く映画『落下音』。
落下音の難解さは、四つの時代のシーンがバラバラに差しはさまれることと、台詞での説明の少なさに起因している。
そこでこの記事では、
・時系列ごとにそれぞれの時代で起きている出来事
・彼女たちが何を思い、なぜ落下するのか
・自分の身体は誰のものなのか。欠陥を介した共感
について整理し、この映画が何を描こうとしているかを考察する。
この先は全てネタバレです。
前提:受け継がれる恐怖
前提として、この映画は
「落下に対する恐怖のように、経験していなくても記憶として受け継がれてきた根源的な恐怖」を描いたものであると監督が明言している。
https://www.cinra.net/article/202604-sound-of-falling_imgwyk
ではこの映画では、錯綜する時代の中、何が受け継がれたのか。
なぜネリーの落下というラストに至ったか。
複雑な描写と構造を分解し、時系列順に受け継がれていくものを並べ直して考えてみる。
相関図
まず念のため、『落下音』では同じ農場で暮らす四世代にわたる少女たちの物語が描かれている。
以下は落下音の公式ホームページで、ネタバレ注意!の注意書きでリンクされている相関図である。

映画『落下音』相関図
さすがにややこしすぎる。
この相関図に従って、年代ごとに作中の出来事や感情、要素を整理し直すと、以下のようになる。
先に述べておくが、細かい台詞は覚えていないので、全部ニュアンスで書いている。
第一世代:アルマ
第一世代であるアルマの時代は、最も要素が多く、それぞれが複雑に関係している。
が、共通した主題として描かれるのは「自分の身体は誰のもの?」という問いだ。
これが全ての世代に共通する問いとなり、落下の恐怖につながるものとして本作中では継承されていく。
では具体的に何が起こり、誰の中にこの問いが生まれたか、三組の対となる登場人物ごとに整理する。
トゥルーディとリア
メイドであるトゥルーディと、他家に働きに出る姉のリアはどちらも
「男たちにとって安全じゃなかった」「だから安全にさせられた」
と語られる。
またトゥルーディは「安全」になったあと男たちが部屋の前に列を作った。
リアは血が止まらず働きに出る予定が遅れた、と語られている。
この二つから、彼女たちは避妊手術(それも恐らく未発達な医療による乱暴な)を受けてまで、性的労働をさせられているという推測ができる。クソ。
彼女たちの身体は、完全に彼女たちのためではなく、男たちのために調整されて使われるものとして描かれている。
だからリアは落下した。売られていく自分の身体は誰のものなの?という問いに自分で答えてしまったから。
私の身体は私のものじゃない。
あるいは落下することが、自分の身体を自分のものにする唯一の方法だったとも思える。
しかし落下して尚、リアは家族写真のために瞼を縫い上げられ、美しい姿を残すために身体を傷つけられる。
リアの身体は結局リアのものにはならなかった。落下してさえも。
これがこの映画における「記憶の中で受け継がれる恐怖」の始まりであり、落下の始まりである。
なお本作中でここがスタート地点であるだけで、受け継がれてきた始まりがここではないことは、アルマの
「またママが吐きかけてる。でも誰も気にしない」「ママはヘッダが一番好き。障害者だから」
という身も蓋もなさすぎる台詞からわかる。
アルマの母親に、すでに落下の恐怖と欠陥への共感は蓄積されている。
二人のアルマ
この家族において、「アルマ」と呼ばれる少女は二人存在する。
一人は作中の視線である、現在存在しているアルマ。
もう一人は今のアルマの姉にあたる、七歳で亡くなったアルマ。
『落下音』の中では、第三世代のアンゲリカや第四世代のネリーなど、複数の登場人物が自分の死を空想している。
それに対して、「アルマ」という存在の中には、はじめから生と死が同居している。
アルマは今生きているアルマであり、遺影の中のアルマでもある。
だからアルマは「生きているのか、死んでいるのか、どこでわかるの?」と問いかける。
自分の身体は誰のもの?という同じ問いを、幼いアルマも持っている。
フリッツとリア、あるいはトゥルーディ
納屋の二階から突き落とされて、望まない形で片足を失ったフリッツ。
この後戦争のシーンがあることから、これは「徴兵から逃れるため」であるとわかる。
『落下音』は基本的には女性たちの「落下」を描いているが、
フリッツは男性キャラクターの中で唯一「落下」させられる。
自分の意志ではなく、他者に自分の身体を侵害される。
男性にもそれは起こり得る、ということがフリッツの存在でわかる。
そして幼いアルマは、意味も知らないまま、フリッツの落下とリアの落下を同じ「労災」という言葉で呼ぶ。
他者による侵害を「労災」と呼ぶのだと、大人たちがアルマに教えたから。
そして同じく他者に身体を侵害されたトゥルーディは、フリッツに奇妙な共感のようなものを寄せているように見える。
他者に侵害されたものどうしとして、欠損をもとにフリッツとトゥルーディは共感している。
この「欠陥を通した共感」が、第二世代のエリカにそのまま見られる要素となる。
第二世代:エリカ
侵害への恐怖と共感
本作中でエリカのパートは非常に少ない。
片脚を失った叔父のフリッツに奇妙な欲望を寄せている、とわかるだけだ。
エリカの視点からは、彼女の思考や感情はあまり語られない。
最期についても、次世代で入水したこととその理由が語られるだけだ。
そのため、エリカについては作中の描写を元にした考察というより、一つの解釈として書く。
エリカは映画の冒頭部分、豚を小屋に入れろ!と叫ぶ男性(おそらく父親)に殴られ、笑みを浮かべてフリッツを見上げる。
またエリカの入水の理由は、敗戦を受け、暴行を受けることを恐れての集団自決だったとのちにアンゲリカのパートで語られる。
当然のように暴力を受けていること、暴行を恐れて入水に踏み切ったこと。
この二つから、エリカもまた「自分の身体を自分のものにできない」と感じていることがわかる。
おそらくこれが、フリッツへの奇妙な欲望に結び付く。
エリカはフリッツに単純に性欲をいだいているわけではなく、欠陥に共感していると、冒頭の松葉杖をついてみるシーンでわかる。
欠陥に対する共感と、「自分の身体は誰のものなの?」という問い。
こうして落下につながる問いは受け継がれる。
第三世代:アンゲリカ
事実
アンゲリカの身に起こったことは、相関図と作中の台詞で比較的明確に語られている。
アンゲリカは叔父ウーヴェに手を出されていて(クソ1)、アンゲリカに恋心を抱いていたいとこのライナーにはそのことで暴言を吐かれ(クソ2)、
おまけに家族や親類の誰も彼女の置かれた状況に気づかないか、あるいは見て見ぬふりをしている(全員クソ)。
そしてアンゲリカは、親族写真の撮影の直前、
叔父の隣に笑顔で立たせられる状況に耐え切れずにその場から駆け出し、身一つで川を渡る。
感情
ではアンゲリカのパートで飲み込みにくい点は何か。
これは起こっている出来事の謎ではなく、アンゲリカの態度だと思う。
アンゲリカは見ようによっては、周囲を誘惑するような態度を見せる。
特に子供の前で露出したりするくだりは本当によくない。
でもアンゲリカは、いとこのライナーに「ヤらせてるんだろ」と言われたとき、一人で泣く。
ではなぜ、そう見られるのは本意ではないはずなのに、誘惑するような態度を見せるのか。
アンゲリカが家を飛び出す前に、「自分の身体なのに、なぜ心臓は自分の思い通りにならないの」という主旨のモノローグがある。
自分のものなんだから、止まれと命じたら止まるべきなのに。今。今。今。
またアンゲリカは、性的な視線に対して、他者が私を見る姿を私も見ていたと語る。
アンゲリカはおそらく作中でもっとも、「自分の身体が自分一人のものであること」に対する欲求と、諦めが強い。
自分のすべてをコントロールすること。自分で選ぶこと。
それを強く望むと同時に、自分一人だけの、確固とした自分なんてないことをわかってもいる。
この葛藤が、おそらくアンゲリカの誘惑的ともとれる態度に繋がっているのではないか。
アンゲリカは自分が選んだ行動だと思いたかった。自分の意志でしていると思い込みたかった。
そうでないのであれば、彼女もまた「落下」するしかなくなってしまうから。
でも事実として、今起こっている何もかもアンゲリカの意志ではない。
その葛藤があの瞬間に爆発して、アンゲリカは川を渡って姿を消した。落下しないために。
自分の身体を自分の手に取り戻すために。
母:イルム
アンゲリカの母であるイルムについても少しだけ考える。
イルムはエリカの妹で、集団入水の際うなぎに噛まれて川からあがってしまい、死ぬことができなかったと語られる。
そしてイルムはパーティのシーンで、うなぎに自分を噛ませている。
一緒に死ねなかった自分を痛みで罰するように。
あるいはあのとき、本当に死から逃げるほどの痛みだったか確認するように。
あるいは、本当にあのときの痛みがこれと同じ痛みだったのか疑うように。
イルムは今でもサバイバーズ・ギルトをかかえている。
アンゲリカはイルムが昔死ぬはずだった川を飛び越え、去っていった。
じゃあこの時代での「落下」は最後はイルムにまた訪れるのかもしれない。
そうでないといい、と思う。
第四世代:レンカとネリー
落下の結実
スマホも登場し画面が一気に現代的になる、レンカとネリーの姉妹のパート。
これまでの時代に比べると、他者から侵害されない権利はかなり保証されている。
二人の父母も対等に愛し合っているようであり(いやチンコ額当てはさすがになんだよ)、
レンカとネリーの二人もこれまでの世代のように、直接的な被害には合わない。
これまで数々の澱みを飲み込んできた家も解体・リフォームされて、雰囲気としてはかなり開放的。
しかし負の影響はエリカとネリーにもっとも強く表れる。
レンカは自分でも正体のわからないなにかに鬱屈していて、外部の少女カヤに興味をいだく。
カヤは母を亡くしており、レンカはカヤに対して同じ味のアイスを選んだり、同化したい願望を抱えている。
フリッツとトゥルーディ、エリカから受け継がれた「欠けたものへの共感」がレンカには表れている。
ネリーは悪夢を見て泣き喚き、川に転がり落ちて溺死する自分を幻視し、最後には納屋から飛び降りる。
フリッツが落下した納屋、リアが死に捕まった納屋、アンゲリカが燃やしたかった納屋。
もっとも平和に生きられるはずだったレンカとネリーの世代に、積み重なった落下の恐怖は大きな影響を及ぼしてしまう。
ネリーの落下
ネリーは「自分の体は誰のもの?」という落下に繋がる問いをかかえてはいない。
ではなぜネリーは落下しなければならなかったのか。
レンカが「あのときネリーが何を見たのかは知らない」と語っていることから、この世代最初に描かれたネリーの悪夢が、ネリーの落下に繋がっていると考えられる。
悪夢の内容は最後まで語られないが、悪夢がどこから来たのかは考えることができる。
悪夢は「解体される家に蓄積されたもの」
そして「川底に蓄積された黒い砂」からくるものであると私は考える。
ネリーはエリカが集団自決を行った川、アンゲリカが飛び越えた川の底に片手で立ち、母に自慢するシーンがある。
川底が黒く汚れていた、と話すシーンも。
そしてその直後に、川に転がり落ちる自分を幻視している。
誤って転がり落ちるというより、自分の意志で川に戻っていくような形で。
だから同じ解体される家で暮らし、理由のない鬱屈を抱えている姉妹でも、
悪夢を見、その末に「落下」するのはレンカではなくネリーなのではないか。
ネリーはあの澱んだ川の底に触れてしまったから。
積み重なってきた落下の恐怖に直面することになったから。
レンカも川に入るシーンがあるが、このときレンカは親族でない、外部のものであるカヤと一緒である。
カヤと水中で見つめ合い、「カヤが川から上がってこないのではないか」という恐怖もカヤ自身によって解消される。
外部からきたストレンジャーであるカヤとの、「欠陥を通した共感」がレンカを守ったのではないか。
幻想の中の浮遊
映画の最後に、アルマとリア(後者は自信ない)が強風にあおられ、浮遊するシーンがある。
このシーンは他のシーンに比べ映像が白んで明るく、二人の表情も妙にすがすがしい。
風が強くて人が飛ばされること自体は存在するが、こんな風に浮遊できるというのは現実味がない。
だからあの浮遊は夢、幻想であると考えられる。
絶えず落下の恐怖にさらされている彼女たちが、幻想の中でのみ浮遊できる。
それは救いのある最後でもなんでもなく、幻想の中にしか救いはない、ということに他ならない。
あるいはネリーの見た悪夢がこのシーンなのかもしれない。
ネリーは落下しようとしたのではなく、浮遊しようとしたのかもしれない。
最後に
自分の身体は誰のものなの?
この映画ではこの問いが「落下」に繋がり、落下への恐怖が連綿と受け継がれていく。
それがこの映画の主題であると私は考える。
そして落下への恐怖は、現代にいたって私たちの身近にもいくらでも感じられる。
本当に私たちの身体は、私たちのものなのだろうか。
この問いを見つめ続けなければいけない。落下しないために。
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